カテゴリ:由布の院異聞( 6 )

由布の院異聞6

「本多博士の由布院温泉発展策~由布院の将来を予言する~」
d0248399_9481961.jpg 時代は一気に近代へと突入する。いや、今回の主人公「本多静六博士」の生涯を考えると「江戸末期」「明治」「大正」「昭和」という激動の時代ということになるのかもしれない。本多博士は慶応2年、埼玉県は菖蒲町で生を受け、苦学し東京農科大学を卒業、ドイツのミュンヘン大学へ自費留学。帰国後、東京帝国大学の教授となるわけだが、この人生、生き方に今注目が集まっている。「流れる水のごとく、弛みなく強く生きよ」という博士からのメッセージが現代サラリーマン諸氏の共感を集め、バイブル的書物として、書店売上のトップにランクインしているのだ。「人生即努力、努力即幸福」という「努力の人物」本多博士は、単に林学博士としてではなく、人生の哲学者としてその存在感を示しているわけである。今、実業之日本社より、「私の財産告白」「私の生活流儀」「人生計画の立て方」などが再販されているので興味のある方は読まれてみると良い。
 由布院のことに話を戻そう。その本多博士が由布院で講演したのは、大正13年10月11日、演題は「由布院温泉発展策」。大正13年というと本多博士58歳の頃、すでに森林公園の在り様にアドバイスを発していた時である。
 その由布院での講演会の前段部分でも、本多博士の哲学が披露されていた。「かのフランスの大思想家ルソーの言った言葉に『自然の成せるものは総て美なり。人間の手に依りて腐敗す』と言うことがありますが、・・・」由布院の、保たれているかどうかは別にして「自然以外何も無い」という一つのコンセプトはここが原点なのかも知れない。この前段部分では、西欧での森林公園の考え方やバーデンバーデンでの温泉利用の仕方など、当時の日本では考えもつかない話が豊富に盛り込まれている。
 そして、本題である「由布院温泉発展策」へと話は入っていく。この中身を聞くと驚かずにはいられない。すべてが的を得て、由布院の指標となっているのだ。交通機関に関わる話では、自動車道の整備を提言し、また周遊するという「面的観光チャネル」の提案をも行なっている。また具体的に「柿ノ木の並木道」と「柿の名産品」というところまで言及していたのだ。
 さらに金鱗湖については「土砂の流入を防ぎ」「湖畔別荘はこれを撤去して岩と湯と水の出口を活かして利用することに努め」と将来を見越した活用法をも提言している。また、場所は違うのだが温泉利用の「遊泳温泉場」の建設を勧め、そこには茶屋や休息場、駐車場を付帯させるとある。自然生態を守った中での「植物園」「動物園」構想や、「大運動場」「温室栽培」までをも提言している。旅館に至っては「温泉宿の改良」ということで「居室と食堂とを別ち」と「泊食分離方式」を教授しているのである。そして、結びでは「健康第一の文化生活に適合する温泉場となすよう新式方針の下に諸設備をなすこと」としているのだ。
 由布院の理念として「保養温泉地構想」というものがある。この構想自体に大きな影響を与えている、本多博士の「由布院温泉発展策」。問題、課題を多く抱えている由布院の今、今一度この原点とも言うべき「由布院温泉発展策」を見直す時ではなかろうか。「流れる水のごとく、弛みなく強く生きよ」の本多博士のメッセージは、「自然に逆らい、流れが止まりつつあるかもしれぬ、弛み過ぎて危機感も無く、それぞれが弱くなっているのかもしれぬ」と警告を与えてくれているのかもしれない。
by fumotoya | 2012-01-04 09:45 | 由布の院異聞

由布の院異聞その5

d0248399_9373619.jpg由布の院異聞その5~閑話休題~ 
由布院の名所?である金鱗湖。訪れた観光客の方々は「これが湖?まるで大きな池じゃない」と首をかしげる。確かに「大きな池」なのだ。
 では、なぜ金鱗湖が極めて小さな湖として有名になってしまったのか。金鱗湖の龍伝説は後におくとして、その由来と不思議に目を向けてみた。
 昔、金鱗湖は岳下(たけもと)の池と呼ばれていた。(由布岳の下にあるこの地域は、現在でも岳本地区と呼ばれている)その岳本を明治17年、幕末の儒学者として有名な「毛利空桑」が病を治すために湯治に訪れていた。当時から、由布院村は小さな湯治客のための小さな温泉場だった。(その頃は、湯平温泉の方が温泉場としては有名を馳せていた)その湯治の合間、空桑は散策の途中、岳下の池に立ち寄る。頃は夕刻、湖面を眺めていると鮒であろうか、ハエであろうか、夕日のさす湖面に、魚が飛び跳ねた。一瞬、その鱗がキラリと光る。夕日を浴びた魚の鱗が金色に光った様に空桑の目に写った。「美しい。岳下の池と言う俗称しかないのでは・・・。金鱗湖と名づけては如何か」ということで、それ以来、金鱗湖と呼ばれるようになったと言う。
 それ以来、地元では、池であろうが、湖であろうが、金鱗湖は金鱗湖なのだ。
 金鱗湖の大きな特徴として、湖の中からお湯と清水が湧き出していることだ。由布岳に向かって、左側からは「温泉」が、右の神社よりからは「清水」が湧き出している。湖底には、それらの「釜」(地元の人は、それぞれ「湯釜」「清水釜」と呼ぶ)が七つほどあると言う。湖底で温水と冷水がぶつかり合い、混ざり合う。自然の不思議としか言いようが無い。お魚さんたちにとって、暮らしやすい環境がそこにはあるに違いない。
 事実、金鱗湖での冬の遊びの中に「魚捕り」があった。昔の金鱗湖は、水も綺麗で今のように汚れてはいなかった。そこで、冬でも、下ん湯で体を温めて金鱗湖へと裸で泳ぎ出る。(昔は露天から金鱗湖と繋がっていて、フルチンの姿でそのまま泳ぎ出ることができた)湖底の湯釜めがけて潜る。筒状にへこんだ湯釜の中には、いろんな魚たちがゆったりと泳いでいるのだ。そこで手を叩く。お魚さんたちは、びっくりして、慌てて逃げようとする。幾匹かの魚は、その拍子で、釜の周囲の柔らかい泥の中へと顔から突っ込んでしまい、身動きがとれなくなってしまう。そこを、何の造作も無く、手で魚を捕まえ、湖面へと浮上するわけだ。
 もちろん金鱗湖は1年中、子どもたちの遊び場であったことは言うまでもない。40年ほど前までは、湖の真ん中あたりに飛び込み台もあったように記憶している。湖畔には、菱の実も自生し、笛を作ったりして遊んでいた。その後、民家や宿などが増えていき、多量の、土砂を含んだ雨水や汚水が流れ込むようになってしまった。今や、湖底はヘドロの堆積で歩くもままならぬようになってしまっている。残念。
 湖面に立つ湯気、もや、霧は湖底が汚れても、今も変わらなく美しい。有名な朝霧の発生の起因のひとつとも言う。四季を通じて、周囲の木々と湖の空気を味わうことが、ただ単に温泉を楽しむだけの温泉地ではない、一つの癒しの哲学を感じさせてくれる。
 由布院では、朝寝坊は損。「早起きは三文の得」早起きして、金鱗湖の周りを散歩してみては如何かな。冬の金鱗湖は、凛として、特に美しいから・・・。
by fumotoya | 2012-01-04 09:43 | 由布の院異聞

由布の院異聞その4

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 さらに時は流れ、戦国の世。九州も戦乱に巻き込まれ、大分では大友氏が隆盛を極め、大友宗麟の代、本拠地である豊後を中心に豊前、筑前、筑後、肥前、肥後、日向の北半分、壱岐、対馬など、六カ国二島を支配「九州王」とまで呼ばれるようになり、九州探題の要職にまでついた。
 その大友宗麟、キリシタン大名としても有名であることはみなさん周知のとおり。ポルトガル、スペイン、明などとの交易に早くから取組み、そんな中、キリスト教との出会いがあった。そして、あのフランシスコザビエルを招き、様々なキリスト教文化を取り入れてきた。医学、音楽など、後に日本がオランダとの交易を活性化する礎をこの時から築いていったと言っても過言ではないだろう。
 そのザビエル、由布院を訪れたこともある。というのも、当時、この由布院という小さな山里に約2千人とも言われるキリシタンがいたからだ。そして、その由布院に、教会はもとより、セミナリヨ(神学校)や病院までもが置かれていたという。その病院では、すでに温泉治療が行なわれていたと記録に残っている。その記録の記された古文書はローマ法王庁に残り、由布院の地名も記されている。「ゆふいん」はFの発音が飛ばされ、「YUIN」として書かれている。きっと「ゆーいん」として宣教師の耳に届いていたのだろう。
 現在、セミナリヨなどの遺跡は残っていない。またどこにあったのかも定かではない。しかし、禁教令以後、隠れキリシタンとして信仰を守った住民たちは、その墓石にクルスを判らぬように刻み、400年以上たった今も、その歴史を私たちに伝えてくれている。
 山の上に立ち、ザビエルは小さな盆地を見下ろし呟く。「美しい」。そう言ったかどうかは判らないが、田園風景に、ぽつんポツンと建つ茅葺の農家の安らぎの風景を目の当たりにしたことは確かであろう。キリスト教という異文化を何ら抵抗も無く受け入れた由布の山里。新しいものへの好奇心と、そこからもたらす、無限の可能性に夢を馳せていたのではないだろうか。
 今の由布院にも、いろいろなものへの興味、好奇心の強さは継承されている。しかし、宗麟が目指した壮大な理想郷「むしか」建設のような、夢を抱き、夢を描き、そして、形にしていこうという環境とその力は、残念ながら減衰していっているのではないだろうか。
by fumotoya | 2011-09-30 18:34 | 由布の院異聞

由布の院異聞その3  金鱗湖のお話し

由布の院異聞その3
d0248399_21142525.jpg 由布院の名所?である金鱗湖。訪れた観光客の方々は「これが湖?まるで大きな池じゃない」と首をかしげる。確かに「大きな池」なのだ。
 では、なぜ金鱗湖が極めて小さな湖として有名になってしまったのか。金鱗湖の龍伝説は後におくとして、その由来と不思議に目を向けてみた。
 昔、金鱗湖は岳下(たけもと)の池と呼ばれていた。(由布岳の下にあるこの地域は、現在でも岳本地区と呼ばれている)その岳本を明治17年、幕末の儒学者として有名な「毛利空桑」が病を治すために湯治に訪れていた。当時から、由布院村は小さな湯治客のための小さな温泉場だった。(その頃は、湯平温泉の方が温泉場としては有名を馳せていた)その湯治の合間、空桑は散策の途中、岳下の池に立ち寄る。頃は夕刻、湖面を眺めていると鮒であろうか、ハエであろうか、夕日のさす湖面に、魚が飛び跳ねた。一瞬、その鱗がキラリと光る。夕日を浴びた魚の鱗が金色に光った様に空桑の目に写った。「美しい。岳下の池と言う俗称しかないのでは・・・。金鱗湖と名づけては如何か」ということで、それ以来、金鱗湖と呼ばれるようになったと言う。
 それ以来、地元では、池であろうが、湖であろうが、金鱗湖は金鱗湖なのだ。
 金鱗湖の大きな特徴として、湖の中からお湯と清水が湧き出していることだ。由布岳に向かって、左側からは「温泉」が、右の神社よりからは「清水」が湧き出している。湖底には、それらの「釜」(地元の人は、それぞれ「湯釜」「清水釜」と呼ぶ)が七つほどあると言う。湖底で温水と冷水がぶつかり合い、混ざり合う。自然の不思議としか言いようが無い。お魚さんたちにとって、暮らしやすい環境がそこにはあるに違いない。
 事実、金鱗湖での冬の遊びの中に「魚捕り」があった。昔の金鱗湖は、水も綺麗で今のように汚れてはいなかった。そこで、冬でも、下ん湯で体を温めて金鱗湖へと裸で泳ぎ出る。(昔は露天から金鱗湖と繋がっていて、フルチンの姿でそのまま泳ぎ出ることができた)湖底の湯釜めがけて潜る。筒状にへこんだ湯釜の中には、いろんな魚たちがゆったりと泳いでいるのだ。そこで手を叩く。お魚さんたちは、びっくりして、慌てて逃げようとする。幾匹かの魚は、その拍子で、釜の周囲の柔らかい泥の中へと顔から突っ込んでしまい、身動きがとれなくなってしまう。そこを、何の造作も無く、手で魚を捕まえ、湖面へと浮上するわけだ。
 もちろん金鱗湖は1年中、子どもたちの遊び場であったことは言うまでもない。40年ほど前までは、湖の真ん中あたりに飛び込み台もあったように記憶している。湖畔には、菱の実も自生し、笛を作ったりして遊んでいた。その後、民家や宿などが増えていき、多量の、土砂を含んだ雨水や汚水が流れ込むようになってしまった。今や、湖底はヘドロの堆積で歩くもままならぬようになってしまっている。残念。
 湖面に立つ湯気、もや、霧は湖底が汚れても、今も変わらなく美しい。有名な朝霧の発生の起因のひとつとも言う。四季を通じて、周囲の木々と湖の空気を味わうことが、ただ単に温泉を楽しむだけの温泉地ではない、一つの癒しの哲学を感じさせてくれる。
 由布院では、朝寝坊は損。「早起きは三文の得」早起きして、金鱗湖の周りを散歩してみては如何かな。冬の金鱗湖は、凛として、特に美しいから・・・。
by fumotoya | 2011-08-27 21:16 | 由布の院異聞

由布の院異聞(2)

 時は流れ、律令の時代。この由布院に「院」が置かれる。「院」とは物品を保管する倉のことで、由布院の地名の元となった柚富(楮から作られた繊維)を保管する「院」が設置されていたことをご存知の方は多いと思う。「柚富郷(ゆふごう)、郡(こおり)の西に在り。この郷の中に栲(たく)の樹(き)、多(さわ)に生(お)いたり。常に栲の皮を取りて以ちて木綿(ゆふ)に作れり。困(よ)りて柚富郷と曰(い)ふ」(豊後国風土記)の一文はいろいろな場面で目にする。しかし、ここでも何ゆえ由布院にという疑問が沸いてくる。確かに当時貴重であった繊維製品の産地であるということもある。柚富で織られた布は、よく神事などに用いられていた。
 もう一つ、由布院にこの頃設置されていたものがある。「駅」だ。駅という字が、馬へんであることで分かるように、昔の駅は、馬便の停留所であり、馬の交換場所でもあった。その「駅」が由布院に在ったのだ。(金鱗湖入口のところにあるローソンの近くにあったと言われている)
 モノが産まれ、モノが流れる。またモノを運ぶための手段が考えられ、そこにヒトが集まる。そして、ヒトが集まることによって、情報が流れる。そういった一つのチャネルが、この律令の時代から由布院では形成されていた。そう考えるのが自然だろう。そして、こういうヒト、モノ、カネ、情報の循環が、由布院の風土を培い、現在の由布院の一風変わった?文化の楚になっていったとは考えられないだろうか。とにもかくにも、環境と風土と地理的なポジション、スケール感が現在の由布院の源にあることは間違いない。
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by fumotoya | 2011-08-14 20:53 | 由布の院異聞

由布の院異聞1


「由布の院異聞1」 
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昔々、そのまたずーっと昔、由布の盆地は湖であったそうな。由布岳は火の山、その麓に広がる小さな山々と草原、そして湖。その湖のほとりには、当然のことながら幾つかの集落が存在した。当然って?そう、暮らしに必要な水があり、絶好の狩猟の環境も整い、さらに火の山というシャーマニズムの対象があったからだ。湖畔の原始人たちの生活は豊かであったはずだ。一山越えれば海もある。物々交換という手段での交易も始まった。「鹿の肉とその黒曜石と交換しよう。黒曜石は矢じりにするのにいいんだ」
 石器時代から、この由布の里は人とモノと情報の行き来する場所であったのかもしれない。
 時は流れ、邪馬台国が出現する。邪馬台国については、その場所についていろいろ諸説があるが私は「宇佐・院内説」を信じたい。地名から考察しても、なぜ「日出」なのか。なぜ「日出生台」なのか。そして「塚原」「高天原」。その西側にはきっと大きな権力を持ったクニが存在したはずだ。この話を書くととてつもなく長くなってしまう。由布院のはずれにある「日出生台」だけを考えると、「日の出が現れる台地」がそのクニの東側にあったということではなかろうか。もっと単純な地名が「国東」だ。クニの東ということ。そのクニとは一体何を意味するのだろう。そして、九州の地に、八幡社の総本社である宇佐神宮が建立されたのは何故だろう。
 その邪馬台国のエリアの中、或いは近接した場所に由布の里は存在していたと見るのはとてつもないばかげた話なのだろうか。ロマンある妄想か。しかし、現在、由布院に人や物が集まってくるのは、そういった時の流れの中にあった事実からかもしれないのだ
by fumotoya | 2011-08-04 09:04 | 由布の院異聞


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